呼吸

感情備忘録

6/2 安楽死の特番

実家に行くと大体NHKなんだけどNHK見ると落ち着くから好き。

自分の家のテレビは去年の地震で壊れちゃって以来テレビ見れる機器無いけど今はニュースはネットで仕入れられるしアニメも配信で観れるしそんな困らない…

…んだけど、フィルターバブルだっけ(こないだ覚えた)…ネットに限定しちゃうといつの間にか偏った情報ばっかり仕入れちゃうなあとも思ってて。

自分で意図的に仕入れない話題もじゃかじゃか取り込んでいたいなあ…というか自分の関心の外について考えると視野が少し広くなる気持ちになれてそういう時間が好きでねえ…

だからそういうときニュース番組とかNHKの番組とか見るのがツイッター止めたその分より楽しい時間になってるなあって気がする。

ツイッター仕入れるしょうもないネタもグルメ情報もフォロワーの何でも無いだらけきった呟きも私にとっては有意義な時間の1つだからどっちの時間がより良いかは自分の主観じゃ決まらないけど。

 

前置き長くなったけどそれはそれとして今日のNHKスペシャルを見た話。

(思いの外長くなったので以下収容しました。)

 

まず切り込み方がとても強くてすごく衝撃的だった…日本人の安楽死にここまで真っ向からテレビ番組という形式で取り上げたものを少なくとも私は初めて見たので…

この番組の序盤のうちから母親と妹とちらっと安楽死に対する持論についてもちょっとした雑談感覚で話してたんだけど。

「私は安楽死は良いと思う」って3人とも同じ見解だった。

父は何も言ってなかったから違う意見だったのかも。

高校生の頃、生命倫理の授業で安楽死に関するディベートみたいなことしたときも確か同じ見解だったと思う。

良し悪しなんてその人の捉え方・思考のどこに重きを置くか次第だとも思うからそこに模範解答なんて無いとも思ってるけど。

世論の傾向としてはどうなんだろうね、ちょっと気になるよね

 

くらいの気持ちで最初は見てたんだけど安楽死を決めた方の思慮の深さがすごくてどんどん圧倒された。

反対される妹さんの「他人を頼っても生きて良いんだと思って欲しい」って見解のそれだけ大切な人なんだろうなって切実さもすごく感じたんだけど

「そう言って貰えてそれも良いのかもしれないと思う自分も少し居るけど症状が悪化していくこれからにはお互いが疲弊する未来しか見えなかった」

「してもらったことに対して「ありがとう」すら言えなくなることについてどうしても考えてしまう」

「自分が自分でなくなることが恐ろしい」

(…全部うろ覚えでニュアンスだけで拾ってて申し訳ないんですけど…)

自分のことも他者のことも全部俯瞰で考えて、そうやって選択した結果なんだなっていうご家族と本人の思考の過程がすごく見えて。

すごく悩んで苦しんで決めたことなんだって痛いくらい伝わるのにテレビに映る彼女たちの表層は穏やかにすら思えるくらいなのが余計に心に迫った。

スイスで過ごす最期の夜も…投薬の瞬間までも見届けられることを許されたのはそんな彼女たちだったからこそなんだろうなと思った。

…流石に見れるとは思わなかったんですよね

だから映ったとき申し訳ないような、ありがたいような、議論のきっかけの1つにしてもらいたいご本人の意図のようなものも感じながら、それでも最期の時間を一介の視聴者に分けることを許してくれたご家族に無性に頭を下げたい気持ちになりました。

 

投薬してからの数分、「ありがとう」と「最期を家族に見届けて貰える嬉しさ」を告げて、ゆっくりと「すごく幸せだった」と言葉にして本当にすぐ目を閉じて動かなくなった彼女の姿を多分きっとこの先何かと思い出してしまう。

 

「ありがとうも言えなくなる自分」を想像して苦しんでいた彼女だからこそ「感情を自分の言葉で伝えられる」ってことがすごく大事なことなんだって、思考の過程を見せて貰えるその中で私も知っていた。

だからこそ最期のその言葉には本当にどうしようもなく彼女の一生どころかそれ以上の意味があったんだろうなって感じられた。

彼女のことを番組で描かれるその中でしか想像しようがないそんな一介の視聴者である自分ですら感じることができた。感じることを良しとして貰えた。

掛け替えのない時間を分けて貰えたありがたさがすごくあった。

 

 

積極的安楽死っていうのは国家単位で見ると、特に日本のお国柄だと余計に、倫理的な観点できっと他国よりも実現は遠いんだろうなと思う。

これから述べる持論は制度として機能させる難しさを棚に上げた上での自分個人の見解なんだけど。

私は個人の意思を尊重するなら「死ぬ選択」っていうのも意思の在り方の1つだと思うから尊重されて欲しいなと思う。

番組内では延命装置で生きることを選んだ方のその理由についても触れられてて。

曰く延命される方の娘さんは「姿があることが何よりだと思ってる。そこにいてくれるかいないかは私にとって大きなことだから延命を選択して欲しかったし、選んでくれて、頑張って生きようと思ってくれたことが嬉しかった」(うろ覚えです…)っておっしゃっていて、それもすごくそうだなとも思った。

安楽死を選んだ方の妹さんもなんだけど「他人を頼っても生きて良いんだと思って欲しい」って言うのは「生きたいと思って、そこに居て欲しい」って思いがあって、だからこそ延命は望まれるように思うし、そう望まれるからこそ本人も延命を選ばれるんだとも思う。

そこから見える延命を選ぶ人、選ばない人の違いっていうのは「自己の死」の定義の違いですよね。

「しんどい状態でそれでも生きたいと思うか思わないか」だとか、多分そういう意思の話なんかじゃない。

 

「自力の意思の表出はできないけど意思はあって、生命活動が維持できている状態」を「実質の死と変わらない」と思う人は安楽死を選ぶ人なんだろうなと。

精神を重視するか身体を重視するかみたいなとこの違いもあるのかもしれないけど結局生きることを望むか望まないかの問題なら考え方…精神的な側面の問題だなあと。

少なくとも私は「自力の意思の表出が二度とできない状態の自分」としては生きていたくない。

私は特に、自分の意見をどこかしらに表出できることに自分である意味を感じてるから余計にそういう考えになるのかもだけど。

それでも誰かの為に生きるとしてもその誰かが自分と同じかそれ以上に大切だと思うほど「ありがとうも言えない」「良くなる見込みのない自分の傍に居続けてもらう」ことに対して私はどうしようもなく苦しくなるとも思うから。

考えて安楽死を選ぶ人ほど「出来れば生きていたい」とは思ってると思う。

生きていたいその上で自分なりの人間性の定義を考えて、どうあることが自分らしさを一番貫けるか、大切な人をより苦しませず済むのか、っていろんなことを考えた末の最善の選択として積極的安楽死っていうのは望まれているんだと思う。

 そんな文字通りの決死の決断…心の在り方っていうのは「生きてこそ」だと、死を遠ざける風潮それだけで否定されるべきものではないと思う。

 

積極的安楽死を認めろとか短絡的なことは言わないにしても実施している国があって、切実な思考をもって安楽死を望む人が少なからず存在している以上、この国でも何らかの議論はもっとなされて欲しいなあと。

議論できるほどこの国に根付く死に対する考え方とか風潮っていうのは柔らかいものじゃないことを感じているからこそ難しいだろうなとも思うけど。

それでもこうした番組や人の声が浸透して、積極的に議論される日が少しでも早く来たら良いなあという気持ちを今回の特番を通して改めた次第です。