あ、あと思い出した。
すごい興味深い話題で考えさせられたからこれもメモしとこう。
正直身近な他人の思考に触れる機会がツイッターしかなかったから今でもたまにアカウント復帰させてちらっと見てはまたアカウント消す行為を割と毎日繰り返してたりしてて。
何も引っかからないけどエゴサもここ何年も毎日してて。笑
今日は自分が好きじゃない自分のことを好きになる人が信じられないから相手の好意に疑問があるみたいな話題をしてるフォロワ達の話を見かけてあ〜〜〜って思うところがあったりなかったりして結構読み込んでたんですよね
全員鍵垢でしてる話題なのに掘っちゃってすまんなって感じですけど。
ここ見てる人もいないし許してねって感じですけど。
他人が思ったことで思うところがあるとアウトプットしたくなってしまう性分なんですよね。
それで怒られたのにね。癖なんですよね
信頼失ったこと今でも悲しいけどそれでもやってるから何かもうそういうライフワークなんだろうなあーあ嫌になるな
その人も私の好意に困ってたりしたのかなあとか思いながらもしまた遊べる日があったら私は好意を隠せないと思うからどうやって受け入れてもらうかを考えたりするけどまた遊んでもらえるかも3割くらい微妙な気がするんだけど
脱線してるな…戻ろ…
私も自分のこと好きなわけじゃないから他人から好意向けられたらちょっと信じられないかな〜って思いながらここ十何年くらい…いやもっとか…ていうかあったか…?てくらい純粋な好意を向けられた覚えが見に無いことに気付いたんですよね
好意向けてきた人が嫌いなわけじゃないけどずっといっしょに一緒に過ごすとストレスを感じそうになるからそんな自分が結局嫌だ、みたいな何かそういう流れだったりしたような気がするけど
…いやまあその人と折り合いがつくつかないはともかく私向けられた好意を鬱陶しいなあ〜〜って思える関係になったことほとんどないから年単位で向けてもらえたら鬱陶しいとしても嬉しかったかもしれないなあってふと
真っ向から好意向けてくれる人がいるなら才能じゃん…すごいじゃん…
その人と上手く居られない、応えきれないことに心苦しさを感じるのはまあそうかもだけど自分は好きじゃないけど、そんな自分に魅力を感じて一緒にいたいとまで思ってくれてる人がいる、っていう事実は肯定しなきゃじゃん
とか思ったんだけど
3月とかあっちのブログに上げた羨ましい感情のこととちょっと通ずるなあ
これ当人達に言っても特に何か自己を変革するきっかけとかにならないどころかでもなあ…てテコでも自己肯定を拒まれるから当人達には言わない方が良いんだろうけど
あーめんどくせ、うらやまし
自分もなってみないとそのめんどくささの程がわかんないからあれなんだけど
自己肯定感なんて私だって無いんだけど他者が認めてくれる自分くらいは認めたら良いのにねえ…
でも他人の評価ありきすぎて不自由してる自分がいるから結局のところどうあれば生きづらくないのかなんて自分の意識の持ちようとしか言い様が無いから答えなんて出せないねえ…
多分自分の生き方も自分がそれで良いって思えば住めば都じゃないけど楽しい生き方だと思うことだって不可能じゃないんだろうなあ
でも結局、生き辛さを抱えてる方が周りはよく見えるから周りのいろんな事柄を偏見なく見聞きしていきたい私は生き辛いまま周囲の何もかもを羨んでこれからも生きてくんだろうなあ